パフェがもっと美味しくなります

パフェがもっと美味しくなります

料理には、食には、もっと可能性があるんじゃないのかっていうのがぼくのずっと考えていることです。それは、料理で感動するっていうことよりもう一歩奥の体験を作ることです。

そもそも料理で感動するってどれぐらい経験してるんでしょうか。

料理で感動することってある?

最近は「美味しい」は当たり前になってきています。

「美味しいものを食べたい」っていう欲求はコンビニでも、ファストフード店でも満たすことはできます。コンビニのシュークリームやおにぎりはもちろん美味しいし、マクドナルドのポテトや吉野家の牛丼も当然のように美味しい。最近では不味いものを食べる方が難しいぐらいです。

でも、「感動」するほどの料理となるとなかなか見当たりません。

また、「高級なレストランに行けば感動できるほど美味しいんだろう」とかつてはぼくも思っていましたが、そんなことはありませんでした。

もしかしたら、「毎食毎食感動してる」という人もいるかもしれません。

それはとても幸せなことです。

ただ、ぼくの思う「感動」とは違うかもしれません。

感動って涙を流すってこと?

感動で一番わかりやすい表現は涙を流すことです。

ちなみに、ぼくは子供が両親と離れ離れになるシーンなどでとても簡単に涙ぐんでしまいます。

しかし、これを感動というのは抵抗があります。

感動って、もっと人生の方針が変わったり、もっと身近には日常生活の送り方が変わったり、そういう人生とか価値観を揺らすものじゃないのか。

ここで、はたと気づきました。

ぼくは「感動」になにもかも背負わせすぎなのかも、と。

涙ぐむことや、ノスタルジーを刺激されることを「感動」と言う人もいるでしょう。

では、逆にぼくが料理に求めていることは何と呼べばいいんでしょう。

ぼくが感動した料理を食べたところ

もう一度料理の話に戻りましょう。

ぼくが「感動」した、と思える料理はこれまでなにがあったのかを振り返ってみました。

らーめん弥七(大阪)で、こんなに美味しいラーメンがあるのかと衝撃を受けました。

エ・オ(大阪)で、こんなに訳のわからない料理(それが分子ガストロノミーでした)があるのかと笑いました。

龍銀(東京)のかつおのたたきや青草窠(東京)のポタージュは、和食の一口に込められた旨味に顎が震えました。

ツマガリ(兵庫)のマカロンには他にはない食感がありました。

そして、Typica(東京)のパフェでは、パフェが食べ物でありながら解釈が可能なことに驚きました。

こうしてみると、食との新しい出会いで感動する、言い換えると新しい発見や価値観を与えられることに感動していたのだと思います。

それはむしろ感動ではなく「啓蒙」と言ったほうがいいのかもしれません。

ぼくがしたいことは料理で啓蒙では?

ぼくがしたいことは「感動」と呼ぶべきではなく、「啓蒙」と呼ぶべきだったのです。

食べた人が食べる前とは違った価値観を持ってくれる、そんな体験がぼくが望んでいることです。

実際に啓蒙を目的とした食事は最近増えてきました。

フードロスに着目して、廃棄されるはずだった経産牛を使った料理だったり、ほとんど食べられていない未利用魚を活用した料理だったり。

これらの料理、食を通して「経産牛」や「未利用魚」に関する意識を啓蒙しようという試みです。

もう少し身近なものでは、地産地消や国産の食材に対しての啓蒙を意図したレストランもあります。

いや。

でも、ぼくがしたいことはそうではない。ぼくが感動するように啓蒙されたこともそういうことではなかったです。

経産牛や未利用魚を使った美味しい料理を食べることで、それらの価値に気づくことは良いことです。しかし、翌日から自分の食卓にこれらを取り入れるかというと、そんなことはありません。

そうではなくて、日常が変わってしまうような体験を「啓蒙」と考えています。

哲学者の東浩紀氏は、啓蒙とは『「見たいもの」そのものをどう変えるか』、『知識の伝達というよりも欲望の変形です』と言っています。

そうです。

欲望が変形すること、つまり日常生活に変化が生まれることが啓蒙だと思うのです。

ぼくの場合でいうと、評判のラーメン屋を探すようになったし、分子ガストロノミーや美食の世界に興味をもったし、決定的なのはパフェ作家として生きていくことを決めました。

じゃあ実際にはどうしていくの?

ここまで言語化はできていませんでしたが、QeFareではこれまでも啓蒙を意識してパフェを作ってきました。そのために、QeFareのパフェはストーリーを持つように、コンセプトを持つように設計されています。

たとえば「KASANE~チョコバナナのパフェ~」には歳を重ねることの良さに気づいてもらえるように作りました。より具体的には味わいが上から下に進むにつれて複雑になるように設計しました。食べ始めの素材はシンプルな調理を、下の方の素材には味に奥行きを持たせました。そういった味わいの違いに気づく自分に気づいてもらうこと、違いのわかる自分に気づくこと、歳を重ねた自分を肯定的に受け止めてもらえるようにという思いをこめました。

ただ、やはり啓蒙は受け取り手がいてこそです。

少し話はずれますが、QeFareはなぜこんな繁華街のなかにあるのか、と聞かれることがあります。

ぼくは、食を通じて世界にもっとも影響を与えたのは、ミシュラン三つ星店ではなくマクドナルドだと思っています。それは、圧倒的な利用者の数によるものです。

つまり知る人ぞ知る、では世界は良くならないと思っています。

そのためQeFareは路地奥ではなく、人の目につきやすい場所、利用しやすい場所に居を構えました。そのうえでぼくの見込みが甘かったのは、夜にパフェを食べに来る際には複雑なストーリーは受け付けないということです。

これには色々な要因があるとは思いますが、結論としては、まずは啓蒙の内容をシンプルにする、ということです。

結論はパフェをめちゃくちゃ美味しくする。

これまでQeFareのパフェはコンセプトやメッセージを重視してきました。そのため、美味しさを少し抑える選択をすることがありました。絵でいうと、画面全体のバランスをとるために主題の女性を美しく描きすぎないようなものです。

しかし、まずはパフェに載せたコンセプトではなく「パフェ自体」の啓蒙をするべきなのだと思いました。絵の女性が美しくないと絵の前で立ち止まってもらえないのです。

QeFareのパフェは、これからもっともっと美味しくなります。

引用

東浩紀:https://fujinkoron.jp/articles/-/3066?page=2#goog_rewarded

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